古事記に登場する神社・史跡を回る旅はやっと第5回になりました。今回は、古くから「お多賀さん」の愛称で広く親しまれ、年間約170万人もの参拝者を迎える、滋賀県第一の大社、多賀大社に参拝してきました。
御祭神は日本の国土と天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになった、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の二柱の生命(いのち)の親神様です。古くから「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まり、分祀社は全国239社を数えます。(→公式HPリンク)
約2時間をかけて以下の順に廻りました。
(10時3分) 近江鉄道多賀線 多賀大社前駅到着 → (10時25分) 多賀大社に到着 → (10時30分)太閤橋 → (10時35分~) 御神門をくぐり拝殿で参拝 → (10時45分) 御朱印を受領 → (10時50分~) 奥書院庭園拝観→(11時10分)寿命石・さざれ石→(11時15分~)金咲稲荷神社(かねさきいなり)参拝した後境内を散策→(11時30分)寿命蕎麦で昼食→(11時55分)莚寿堂本舗で「糸切餅」を購入
古事記との関連
多賀大社に関する記述が古事記に出て来るのは以下のパートです。
【上つ巻】神生みと伊耶那美神の神避り [三貴子の分治]
伊耶那岐大神は、湏佐之男命(すさのおのみこと)に「どんなわけがあって、おまえは委任した国を治めないで泣きわめいているのか」とおっしゃった。それに答えて湏佐之男命は、「私はここを去って亡き母の国の根之堅州国に行きたいと思い、それで泣いています」と申した。これに伊耶那岐大神はたいそう怒って、「それなら、おまえはもうこの国に住むな」とおっしゃって、湏佐之男命を追放なさった。その伊耶那岐大神は、近江の多賀大社に鎮座していらっしゃる。
(参考文献)中村 啓信. 「新版 古事記 現代語訳付き」 (角川ソフィア文庫)
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、湏佐之男命(すさのおのみこと)の三人の子に各々天上界、夜の世界、海原を治めるように委任します。
ところが、湏佐之男命だけ従わないため、伊耶那岐大神は怒って追放し、その後お隠れになり多賀大社に鎮座していらっしゃるとのことです。
多賀大社の御祭神が伊邪那岐大神となっている理由がこれでおわかり頂けますね!
参拝の記録
JR京都線で彦根駅まで行き、そこで近江鉄道本線に乗り換えました。近江鉄道はSUICAやICOCAの鉄道系電子マネーは使えないため、随分久しぶりに現金で切符を購入しました。

多賀大社駅で下車すると、駅の構内に多賀大社が紹介されており、大きな境内全図もありました。公式HPにもありますが、小さいのでこちらを写真に撮った方がみやすいかも知れません。

駅を出ると目の前に多賀大社の大きな鳥居がありました。ただ、多賀大社にはここから歩いて10分ほど先になります。

鳥居をくぐってまっすぐ進むと突き当りを左に曲がります。風鈴の涼しげな音色がするので見ると、空き缶で作った素敵な風鈴が飾ってありました。今日も真夏の陽射しがきつい日でしたが、風鈴の音色に癒されました。

多賀大社の鳥居から太閤橋へ
道なりに歩いていくと、多賀大社の入り口の鳥居に到着しました。

鳥居をくぐると、目の前に太閤橋がありました。本当は太鼓橋ですが、太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」と呼んでいるそうです。
過去のブログを読むと登れたようですが、現在は禁止になっていたのは残念でした! 前回参拝した住吉大社の「反橋(太鼓橋)」は登れたのに、こちらはどうして禁止になったのでしょうね?


御神門から拝殿へ
いよいよ御神門を通って拝殿に向かいます。御神門の間から拝殿を窺うことができてます。

御神門を出ると、拝殿、その奥の神楽殿、その横の幣殿が目の前に広がり、広々した感じがすばらしいと感じました。

右手には「お多賀杓子(しゃくし)」がありました。奈良時代の元正天皇の病気平癒の祈祷の際に、強飯(こわめし)にシデの木で作った杓子を添えて献上したところ、たちまち平癒されたことが由縁とのこと。左手奥に、参拝者が掛けた、たくさんの杓子がつるされていました。

そして拝殿です。今日は結構遠くから来ましたが、無事参拝することができた感謝の気持ちをお伝えしました。

更に近寄るとこんな感じです。右手の柱に大きなお多賀杓子が鎮座しています。奥に見えるのは神楽殿だと思うのですが、そこには行けませんでした。神主さんの姿が見えましたので、御祈祷を受ける方は入れるのかも知れません。

御朱印
参拝が終わったところで、左手の授与所で御朱印を頂きました。達筆で美しい御朱印でした。
また、こちらで名勝指定されている奥書院庭園の拝観チケット(300円)を購入しました。


奥書院庭園
自動扉を入ってくださいと言われ、入り口を通ると、正面に創玄書道会の石飛先生の「二霊群品之祖」と書いた大作が目の前に飛び込んできました。二霊とは御祭神の伊邪那岐命・伊邪那美命のことです。夫婦で八百萬の神々、山川草木の一切(群品)を御産みになったことを意味する書だそうです。


外は参拝者が多く賑やかだったのですが、一歩こちらに入ると見学しているのは私だけ。冷房も適度に効いていて、静かで贅沢な空間を独り占めすることができました。


廊下の左右にはここを訪れた多数の有名人のサインが飾ってありました。紙ではなく木の上に言葉や絵が描いてあるのが素敵でした。

作家によるものも沢山ありましたが、司馬遼太郎さんのものは言葉も絵も洒落ていて、さすがだと思いました。古事記の原文では「近江」のことを「淡海」と記しており、そのことをちゃんとご存じなんですね。

奥書院は庭園も素晴らしいですが、見事な襖絵(ふすまえ)が書かれた部屋も見学できました。以下の写真は「鶴の間」といいますが、江戸時代は勅使や公卿の参向の際に休憩したことから別名「勅使の間」と云われている部屋です。

豊臣秀吉の祈願文も展示されていました。1588年に母大政所の病気に際して、当社に米1万石を寄進して平癒を祈願したとのことです。書状には「母親の存命を3年、無理なら2年、それも無理なら30日延命してほしい」と書かれていますが、その後大政所は回復して4年の寿命を得たとのことですから、祈願が叶ったわけですね!

寿命石・さざれ石
拝殿の右手の金咲稲荷神社に行く途中に、「寿命石」がありました。8百余年前に、南都東大寺再建を仰せつけられた重源上人が、寿命守護を祈るために当大社に参籠し20年の延命を感得して、大業を成し遂げたことが由来だそうです。沢山の方が白石に願いを記していました。


寿命石の右手には「さざれ石」もありました。日本国歌にある「さざれ石」ですが、実物を見たのは初めてでした。長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を集結して次第に大きく生長した、誠に目出度い石とのことです。

金咲稲荷(かねさきいなり)神社
続いて、多賀大社の末社の金咲稲荷神社を参拝しました。見ての通り、お名前が目出度い上に、朱色の鳥居に賑やかな幟旗(のぼりばた)が立っていて、御利益がありそうな神社ですね。

神域への入口を示す通路には朱色の鳥居が連なっていています!「お金の咲くお稲荷さん」として金運上昇などの「願いが通る(叶う)」という意味があるそうです。

私もありがたくお参りをさせて頂きました。「お金の咲くお稲荷さん」の御利益があるとよいのですが。。。

「寿命蕎麦」で昼食
一通り見終わり、12時近くなったので昼食を食べることにしました。多賀大社の参道には美味しそうなランチを提供するお店が沢山あったのですが、御朱印の授与所の左手に蕎麦屋さんがあり、グーグルの口コミ評価が結構良かったのでこちらにしました。「寿命蕎麦」という多賀大社にふさわしいおめでたい名前ですね。

珍しい「鮎(あゆ)そば」があったので、頼んでみました。これが大正解で、鮎は柔らかく煮込んであり、まるごと骨まで食べることができ、とても美味しかったです。

「糸切餅」を購入
無事お参りも終わって大社の鳥居を出ると、沢山のお店が並んでいました。行きに見た「糸切餅」が美味しそうだった、「莚寿堂本舗」に立ち寄って、「糸切餅」を購入しました。

駅の待合室で早速頂きましたが、真ん中に餡子が入っていておいしかったです。「莚寿堂本舗」の公式HPによると、「糸切餅」は鎌倉時代の蒙古襲来を神風が退けたことを祝って作ったことが由来で、この綺麗な色は、蒙古軍の旗印の赤青三筋から来たそうです。→「莚寿堂本舗」の公式HPのリンク

以上で、多賀大社のお参りは終了です。
地元では「お多賀さん」と親しまれているのがよくわかる、広々としてとても気持ちのいい社でした。
春の枝垂れ桜、秋の紅葉といった見どころもあるそうですので、また違う季節に是非、訪れたいと思います。
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