【第2回】石上神宮~古社のなかの古社

第2回は石上神宮(いそのかみじんぐう)です。2025年6月5日(木)に参拝しました。歴史学者の上田正昭氏は、石上神宮について著書「私の日本古代史」の中で、「あまたの神社のなかでも、もっとも注目すべき古社のなかの古社である」と記しています。2025年6月5日(木)の平日午前中に参拝してきました。

コンテンツ

石上神宮について

石上神宮は、奈良盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西麓および布留山(ふるやま)の北西麓の高台に鎮座する、極めて歴史の古い神社です 。また、日本最古の道の一つとされる「山の辺の道」の、禁足地に代表される重要な祭祀遺跡であり、古代の有力氏族の軍事と祭祀の役割を象徴する聖域でもあります。更には、七支刀に代表されるあまたの神宝が保持された神府(神社の宝物を納めて置く倉)でもあります。
HP:石上神宮

①極めて歴史の古い神社

社伝によれば、第10代崇神(すじん)天皇7年(西暦は不明)に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られたのが創建の始まりとされます 。『古事記』には「石上神宮」、『日本書紀』には、「石上神宮」「石上振神宮」とのべるように、古くから「神宮」と記述するもっとも代表的な社です(古事記に登場する神宮は、伊勢大神宮と石上神宮の二つだけとのことです)。

②祭祀遺跡であり、古代の有力氏族の軍事と祭祀の役割を象徴する聖域

石上神宮では御霊振り(ミタマフリ)の鎮魂の聖域として、鎮魂の秘儀と呪法を長く持ち続けており、毎年11月には鎮魂祭が執り行われます。また、石上神宮の祭祀や神宝の管理に密接なかかわりを持った氏族として物部氏があります。物部氏は古代の軍事氏族として知られますが、祭祀や神宝の管理も行っていたという伝承も少なくありません。社伝によると、第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみことが現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めとされています。

③あまたの神宝が保持された神府

石上神宮には貴重な神宝が数多く伝世されてきました。加えて石上神宮の禁足地からも数多くの発掘品が見つかっています。伝世品のなかには国宝の七支刀、重要文化財の鉄楯、色々威(いろいろおどし)腹巻などがあり、禁足地出土品には重要文化財の硬玉勾玉、碧玉勾玉などがあります。詳しくは公式ホームページをご覧ください。

また、歴史を遡ると、石上神宮の神府には大量の武器類が貯蔵された武器庫があったとされています。第11代垂仁天皇の時代には、五十瓊敷命(いにしきのみこと)が1000口もの剣を奉納し、神庫(ほくら)を管理したという伝承があり、更に『日本後記』の伝えには延暦24年(805年)に石上神宮の兵仗を平安京へ運ぶのに延べ「15万7千余人」を必要としたと述べており、石上神府が兵器庫していた状況を物語っています。

古事記との関連

古事記の中の石上神宮に関する記載がある個所を、ピックアップしましたが、初代神武天皇から第17代履中天皇まで、様々な時代に石上神宮が登場しており、さすが「古社の中の古社」と言われるだけあります。
また、何れも戦や刀の奉納に関連して登場しているところに、武器庫としての石上神宮の性格が顕れているように感じられ、現代の穏やかな石上神宮とは役割がかなり異なる点が、興味深いと思いました。

【中つ巻】初代神武天皇
(神武天皇は日本建国神話の中心人物であり、即位の日は現在でも「建国記念日」として祝日になっています)
神武天皇は「東征」と呼ばれる遠征を行いますが、熊野で病んで臥せっているところに、一振りの太刀を献上されると病から回復して、その太刀の威力で熊野の悪しき霊威を振るう神はすべて切り倒されたとされています。そして「その大刀の名は「布都御魂(ふつのみたま)」といい、石上神宮に鎮座している」と記されています。

【中つ巻】第11代垂仁(すいにん)天皇
時代は下り垂仁天皇の御代に「御子の印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)は、大刀一千振を作らせ、この大刀を石上神宮に奉納申し上げた」との記載があります。

【下つ巻】第17代履中(りちゅう)天皇
更に時代を下って第17代履中天皇は、「弟の墨江中王(すみのえなかつみこ)が反逆した際に、難波宮から大和に逃げて、石上の神宮にいらっしゃった」との記載もあります。

(参考文献)中村 啓信. 「新版 古事記 現代語訳付き」 (角川ソフィア文庫)

旅程

天理駅から歩くと30分とそれなりの距離がありますが、交通手段はタクシーしかありませんでしたので、今回は徒歩で往復しました。まだ気温がそれほど高くなかったので、歩いても問題ありませんでしたが、これ以上暑くなるときついと感じました。到着すると神宮入り口の鳥居手前にタクシーが2台ほど停車しており、実際に参拝を終えた年配の方が電話でタクシーを呼んでいる様子も見ましたので、体力に自信がない時はタクシー利用がよいかも知れません。

9時20分 (近鉄天理線)古賀駅到着
9時50分 徒歩にて石上神宮到着
鳥居、万葉歌碑、神杉、手水所、ニワトリ、楼門、拝殿、授与所・祈祷受付所、大イチョウ、摂社(出雲建雄神社、猿田彦神社など)を巡る(残念ながら、本殿と禁足地には入ることができませんでした)。
10時45分 石上神社を出発、山の辺の道を少し歩いて天理駅へ

参拝の記録

JR天理駅を出ると、目の前はタクシーやバスが止まっている広いロータリーで、目の前に東急INNがありました。ここから右斜め前に進んでいくと。天理本通というアーケード街の入り口が見えたのでそこから入りました。

このアーケードはかなり長くて、信号を二つ渡って、ようやく出口にたどり着きました。最初の写真が二つ目の信号で、次の写真がアーケードの出口です。

アーケードを抜けて更に直進し、右手にファミリーマートのある交差点についたら右折します。そこをまっすぐ進めば突き当りが石上神宮ですので、ルートはわかりやすいです。

布留川の上に掛かる布留大橋を渡ってしばらくすると、神社の入り口が見えて来ました。大きな木々が茂る様子を見て、胸が高まります。

神社に来るまでは少し蒸し暑かったのですが、一歩境内に足を踏み入れた途端に爽やかな空気に包まれ、神域に入ったと実感しました。

大鳥居が見えました。昭和3年の昭和天皇の御大典を記念して建立されたものです。台湾の檜(ひのき)が用いられ、明神造りとのことです。

手水所です。石上神宮ではなく、「布留杜」と書かれているところが、歴史を感じさせます。

いよいよ拝殿に入ります! 楼門は「鎌倉時代末期、第96代後醍醐(ごだいご)天皇の文保2年(1318)に建立され、重要文化財に指定されています」とのことで、迫力がありました。

楼門をくぐると拝殿です。第72代白河天皇が、当神宮の鎮魂祭(ちんこんさい)のために、永保元年(1081)に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたと伝えられています。拝殿として現存する最古のものであり、国宝に指定されています。

残念ながら本殿と禁足地には入ることはできませんが、拝殿の斜め上に見えるのは本殿の千木でしょうか。禁足地は御神体が鎮まる霊域として称えられてきたとのことですが、当神宮の御神体である神剣「韴霊(ふつのみたま)」が禁足地の土中深くに祀られているという伝承があったため、明治7年8月に調査したところ、多くの玉類・剣・矛などと共に神剣「韴霊」が顕現され、伝承の正しさが証明されたとのこと。神剣「韴霊」は本殿内陣に奉安され、御神体として祭られているとのことです。

拝殿の中には、授与所・祈祷受付所があり、御朱印を頂きました。3種類ありましたが、七支刀の入ったものをお願いしました。

石上神社には立派な木が多いのですが、以下はイチイガシの巨樹と大イチョウです。どちらも見事なもので、特に写真右側の大イチョウは高さ約30m、幹周り3.26m、樹令は約300年と言われており、黄葉のシーズンには、天理市内の各所から見ることができ、天理駅のJRのプラットホーム(2階)からも見えるとのことです。

楼門を背にして階段を上ると、出雲建雄神社を始めとする摂社にお参りすることができます。

神宮の最後は、石上神社の一番の人気者のニワトリです。様々な種類のニワトリが元気に駆け回り、鳴いていました。写真の真っ白なニワトリは烏骨鶏だと思います。

神宮の中を日本最古の道である「山の辺の道」が通っています。今回は時間がなくて天理駅に戻る際に遠回りして10分ほど歩いただけになりましたが、古社寺や古墳群などといった多くの史跡をはじめ、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』ゆかりの地名や伝説と出会えるルートですので、別途時間を取ってゆっくり歩いてみたいと思いました。

以上で、石上神宮の訪問記は終わりです。

このブログを書くに当たって、石上神宮に関する古事記や参考文献を読み返してみましたが、日本の数ある神社の中でも特別な歴史を有する古社だと改めて感じました。

また、古事記の時代の神域が、遺跡ではなく、生きた信仰の場所として現在まで大切に受け継がれているところが、日本のすごいところだと思いました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

コンテンツ